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言葉だけでつながる社会は信頼ができない?

【がんばれニッポン!】

東京オリンピックが開幕して1週間が過ぎました。
コロナ対策への不安や、開会式スタッフの人選トラブルなどで、
直前までゴタゴタしている状態でしたので、
個人的には正直少々しらけ気味でしたが、
いざ始まってみると、ほぼテレビの前で一喜一憂しています。

オリンピックを批判していた者には選手を応援する資格はない、
なんて声もありますが、それは少しシンプル化しすぎな気がします。

批判の大半は、コロナ対策の不備からくる不安、
それに正面から答えようとしない政府や組織委員会、
オリンピックはOKで各種イベントがNGであることの不公平感、
さらには、物事の決まり方の不透明感や利権のにおい、
一部メディアの扇情的な情報の伝え方などに向けられていたのであって、
選手自体に罪はないのですから、始まってしまえば、
応援するのは自然な感情だと思います。

オリンピックが終われば帳消しになるような問題でもなく、
選手の活躍を讃えるのとは別に、事後、
しっかり検証して教訓を得ないといけないでしょう。

コロナのような感染症は、個々人の健康リスクもさることながら、
社会に分断をもたらす怖さがあるとは、多くの識者が指摘するところ。
人種や宗教、イデオロギーなどを超えて一堂に会する
オリンピックさえもが分断のタネになりかねないんですから、
やっぱり、感染症おそるべし、です。

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こんな感じになるはずだったのに……


【音楽の力、スポーツの力】

NHK『コロナ新時代への提言~変容する人間・社会・倫理~』の中で、
人類学者の山極壽一さんが次のように語っています。

――人間は、信頼を言葉だけでなく、
むしろ身体と身体が共鳴し合う中で形づくってきた。
言葉は、進化史上、後から出てきたものだから、
信頼できるコミュニケーション手段ではない。
今、身体の共鳴が失われ、言葉だけでつながる社会に放り出された――

言葉だけでつながる社会。
共鳴→信頼が形づくられにくい社会。
人と人の接触が制限されるコロナ禍の社会もそうですし、
それ以上に、一部のネット社会もそうなのかもしれません。

山極さんは、前出の番組内で、
言葉の前に音楽があった、と述べています。

――音の組み合わせによって、「意味を作る」のではなく、
「気持ちを伝える」コミュニケーションがあった。
それを我々は現代も持っている。
実際、多くのミュージシャンがコロナ禍の中、
ネットで音楽をあげ多くの人を癒した。
音楽の機能は失われていない。
音楽は人と人の間を共鳴させる一番いい装置――

音楽に共鳴するのはみなさんも納得ですよね。
そして、オリンピックに限りませんが、
スポーツにもその力があると、
オリンピックを見ながら改めて感じます。

選手たちが懸命に頑張る姿に、
戦い終えた選手たちが交わすリスペクトに、
選手たちが流す喜びや悔しさの涙に、
思わず胸が熱くなる……そこに特段の言葉は必要ありません。

それにしても、57年ぶりの自国オリンピックに、というか、
あらゆることにケチをつけまくっている新型コロナウイルス。
解決すべき課題を浮き彫りにしている面もあるとはいえ、
もうつくづく、いい加減にしてほしいです。

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